2016.12.07 Wednesday
大河津分水 その1(洗堰)はこちら
大河津分水 その2(旧洗堰)はこちら
大河津分水の第3回は、旧可動堰。分水路側の堰です。
かつては固定堰と可動堰の組み合わせだったんですが、今は旧可動堰が3径間だけ残っています。建設コンサルタンツ協会のホームページに、旧可動堰があった頃の写真が残っています。新旧の航空写真は前回の記事で比較できます。
出典:Wikipedia, 撮影:Tackey0903jp
現役だった頃は、10径間ありました。
残念がら機械設備や門扉などは残っていません。
大河津分水路が通水した1922年(大正11年)には、ここよりも下流に自在堰がありました。1927年(昭和2年)に自在堰が壊れて大きな被害が出たので、あらたに建設されたのがこれです。1931年(昭和6年)の竣工です。
このあたりの経緯については、国土交通省のホームページに概要が掲載されています。
また、土木学会図書館に古い写真があります。
あとで写真をよく見たら、門扉が埋まっていました。出しておいてくれたら良いのに(^^;)
出典:Wikipedia, 撮影:Tackey0903jp
これは2010年の写真なので、写真の右奥に新可動堰(2011年竣工)が写っています。旧可動堰の左岸側にあった固定堰はすでに撤去されているのかもしれません。水位を見ると、現在の旧可動堰の前後は埋め立てられて河川敷化されているようです。
堰柱の下流側は斜めになっています。だいたいどこでも斜めなんですが....
出典:Wikipedia, 撮影:Tackey0903jp
これが現役だった時の写真です。斜めの部分に階段が付いていたんですね。
堰の軸線上、堤内地に立派な石碑が建っています。「信濃川補修工事竣工記念碑」
有名な、青山士の銘文「万象に天意を覚る者は幸なり」。下のアルファベットは同じ意味のエスペラントだそうです。石碑の詳細はここが詳しいです。
裏側には工事の主要関係者の氏名も刻まれていて、もちろん青山の名前もありました。となりにある宮本武之輔の名前も土木史によくでてきます。
遠くに見えているのが、2011年に竣工した新可動堰です。
次回に続きます。
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Category:新潟県